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美空ひばり◆悲しき口笛
- 2021年2月28日 神奈川新聞掲載

庶民の頰ぬらした少女の歌声
カトリック幼稚園の恩師が、いまだに僕のことを応援してくれています。ちょうど歌手になった20年前のその年、同級生の結婚式でおどおど歌ったその日から。「まぁ、あのオチビがよれよれのタキシードなんぞ着て」とさぞかし頼りなく映ったことでしょう、以来聖母マリアさながらの慈愛を注いでくださっております。
先生もご高齢になられてからは、お住まいの団地の集会所に慰問も兼ねて歌会をやらせていただいているのですが、横浜の山手駅から磯子方面へバスで向かう道のりで必ずよぎるのが、こちら滝頭地区で生まれ育った美空ひばりさんの少女時代のお姿です。
そしてバスの車窓に重なる影像が、まるで何かにじっと耐えているように涙をぼろぼろ流している少女…。これは海風そよげど横浜にあらず四国の海沿いの急坂にて記憶された少女時代のひばりさんのひとこまなのですが、この直後にバスはトラックと衝突して横転!
「あの時も何かを感じて涙を流していたのでしょうね」とはこの巡業に同行していた歌手・音丸さんの証言なのですが、仮死状態から奇跡的に目覚めたひばりさんが〝人生のテーマ〟を悟ったのはこの10歳の時だったと後に語られています。
「私は歌い手になるために生まれてきたんだ、だから神様が生命を救ってくれたんだ」。横浜大空襲で業火にのまれた磯子地区にあって、生家の魚屋があった〝屋根なし市場〟の一角だけが不思議に何の被害もなかったというのもその宿命ゆえでしょうか。3歳にして父の唱える百人一首の大半をよどみなく暗唱して驚かせ、5歳にして初めて人前で歌った「九段の母」で満座を嗚咽(おえつ)で溢(あふ)れさせたというひばりさん。母親の喜美枝さんは、ひばりさんがどんな歌を〝物まね〟しても「どっかちがってたんですよ。親の欲目じゃないけど、もっとしみじみした。人なつっこい歌い方でした」。

そうして大反対だった父も「勝手にしろ」と根負けし、スタアへの階段の一心同体、二人三脚が始まった母娘にはしかしさまざまな困難が。国民的行事となっていた「素人のど自慢」では誰が聴いても文句なしの歌唱に審査員は「ゲテモノは困りますな」と言い放ち鐘を鳴らさず、やはり大ブームだった一連の〝ブギ〟をひばりさんが歌う事に対してはその創始者たる歌手の圧力で「ブギ禁止令」までもが。しかし良識ぶった大人たちがいくらひばりさんを締め出しても、庶民大衆は熱い声援を送り続けたのは、その歌声が庶民大衆の哀歓そのものだったからでしょう。
1949(昭和24)年、B面に追いやられたデビュー曲「河童ブギ」を悔しさのバネに、同じ映画「踊る竜宮城」の挿入歌として吹き込んだ「悲しき口笛」を次作に据えるやビニール工場も悲鳴を上げるほどの記録的大ヒットに。〝屋根なし市場〟で隣人たちを涙させた日から7年、なめ続けた苦杯はついに国民全体の栄冠となったのです。
口笛の似合う春の日差しの今日、これを書かせていただくにあたって横浜へと向かったのですが、滝頭へ足が重いのはコロナ禍にあって先生のおられる病院にも入れないため…。でも先生も目の前の少女ひばり像も「異端にだっていつか花は咲くんだよ」と遠く囁(ささや)いてくれた気がしました。46歳ゲテモノ一匹、頑張ります!
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