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鹿内孝◆本牧メルヘン
- 2021年3月28日 神奈川新聞掲載

けむる街と大人の悲しい童話
言葉にしただけで、けむりがふっとゆらめく街。僕の中の本牧のイメージであります。〝モク〟という響きがたばこの吸い殻の〝シケモク〟や、〝もくもく〟と湧き上がる擬音がぼくの短絡的脳内をけむに巻いたのかも…。そう、本牧は歌謡曲の世界で耳をくすぐれど、実際に訪れたのはだいぶ大人になってからであり、長年そんな「けむり状態」から勝手にくゆらす絵空事の街でした。
そんな思いを携えながら、あらためて踏み入った本牧界隈(かいわい)には、夕靄(ゆうがすみ)の似合うロマンチックな店々がありました。しかしここ一帯はその昔海水浴場であったとか、空襲で一面焼け野原であったという歴史に触れると、埋め立てられた残響、残照としての煙が鼻をかすめます。そうして本牧を舞台とした歌謡曲を振り返ると、作家によってそれぞれの〝心のけむり〟が沁(し)みてくる気がしました。

本牧といえばザ・ゴールデン・カップス。今も現存するお店「ゴールデンカップ」から羽ばたいた、港ヨコハマの香りで薫製されたかのように陽に曝(さら)されたバンド。しかしロックな骨を抜きにすると世間的には「長い髪の少女」(1968年・昭和43年)が知られるところですが、歌詞に出てこないながらもこの歌は本牧が舞台となっています。
書生をしながらの苦学生から瞬く間に流行作詞家となった橋本淳さんの目に、オトナたちに連れられた最先端たる夜の本牧は、何もかもが不思議な明滅に満ちていました。米軍に接収された〝陸の孤島〟〝フェンスの向こうのアメリカ〟がまだ確かに存在していたのでしょう。


本牧の怪しげなクラブにいた少女を見て「なぜこんなところに若い女性がいるのか不思議でならなかった」という想いがそのまま流行歌に。ここでぼくが感じるけむりは〝雨に汚れた街に、あなたは一人…〟そんな灰色の煙雨でしょうか。
同じカップスでもなかにし礼さんのペンとなるその名も「本牧ブルース」(69年・同44年)では、冠すれど歌には一切地名が出てこない心憎さ。〝それでいいじゃないか、愛しているなら〟というフレーズに象徴される、若者の自由恋愛を〝トゥー・マッチ〟に表現。ここに漂うのは地下に交錯する浮気な紫煙…もはや和洋の垣根も越えた70年万博の夜明けが見え隠れしているように感じます。

そして、今回の主役。「本牧メルヘン」(72年・同47年)は朴訥(ぼくとつ)な背中を持った阿久悠さんがカウンターで描いた大人の悲しい童話です。〝恋をしたこともなく悩みもないのに〟自ら命を絶って、〝かもめになった〟女性。阿久さんは70年代を「さびしさが死ぬ価値だった時代」とし、そこへと駆り立てたのは「豊かになったあとの虚無さ」であるとしています。戦後の急速な高度成長によって本牧も夢のお城ではなくなってしまった時、若者たちの胸にはかなわぬ夢よりもつらい白壁がひび割れていました。
そんな物語を、洋行帰りの鹿内孝さんは劇中のジョニーとスミスさながら、虚無の中で熱く優しい吐息をこよなく描きます。それは哀悼の〝苦めのコーヒー〟に溶かされていくクリームのよう。針を落とすたび、汽笛のけむりに似た哀れな湯気が、瞳の奥でぐしゃと崩れます。
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