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山口百恵◆横須賀ストーリー
- 2021年4月25日 神奈川新聞掲載

群青の海に導かれ
20代の頃、相模原は東林間のアパートで1人暮らしをしていました。お隣が小さな教会で、その神父さまが大家さんだったのですが、温情に溢(あふ)れたとても優しい方で、その敷地にタダで車を置かせてもらっておりました。車は父のお下がりのオンボロ軽自動車。夜中に眠れない時など、よくドライブをしていたことをふと懐かしく思い出します。
たいていは海を目指して国道へ車を走らせていたのですが、ある時冒険心からいつもより先に突き進んでしまい、迷い込んだその暗い道の表示板には「横須賀市」。開けた窓から漏れ込んだ遠い潮騒や冷たい海風に震えながら、心の中で♪これっきりこれっきりもう…「帰ろう」となった丑(うし)三つ時。何となく横須賀には「ヨソ者がおいそれと近づくものではない」といった威厳を感じたのは、ぼんやり軍都のイメージと歌謡曲から汲(く)み取った匂いがあったからでしょうか。
先の「横須賀ストーリー」や「港のヨーコ・ヨコハマ・ヨコスカ」の世界観から漂うどこかジャンクなポマードの匂い…いずれも作詞の阿木燿子さんはこのように語られています。「同じ港町でも横浜は明るい街。横須賀は軍港で、軍艦も停泊していてどこかに陰があった」

ご両親が晩年に暮らした実家のある横須賀が〝第二の故郷〟であった阿木さんが、横須賀出身の山口百恵さんとつながったことは約束された運命であったかのよう。ダウン・タウン・ブギウギ・バンドの「涙のシークレット・ラヴ」を愛聴していた百恵さんが「この人の世界をうたってみたい…」と口にした時は当初周りの誰しもが「イメージと違いすぎる」と反対し、依頼を受けた阿木さんの生涯のパートナー、宇崎竜童さんも「何で俺に?」とびっくりしたといいますが、この三者の視界の向こうにあった横須賀の海が全てを導いたような気がします。
百恵さんのこれまでの作品を全て通して聴いた宇崎さんは、何故彼女が生まれた横須賀の街、その「ひとつの波みたいなもの」を描かないんだろうと疑問に感じたそうですが、そこには芸能界の荒波とは関係のない、人それぞれの原風景こそ大切にする同志たちの結晶たる思いがあったのでは。

百恵さんが自伝「蒼い時」に〝あの街を去る前日の中央公園 さようならと決して言わなかった友達 いつでも帰ってこいと言った友達 それなのに遠くなってしまった街〟とつづった悲しい一葉は、♪急な坂道 駆けのぼったら 今も海が見えるでしょうか…と阿木さんが歌の中でモデルとしてつづった場所と偶然の一致。諸説あるようですが、坂の上にある中央公園で、時空を超えて百恵さんと阿木さんが夕暮れのブランコに揺られている美しい錯覚が目に浮かびます。

「他人が敷いたレールではなく、自分の世界を世に問いたい」。その後の生き方を導いてくれた「人生の聖職者」であり、「理想の夫婦」である阿木さん・宇崎さんと出会った百恵さんは、運命に導かれるがまま教会の鐘を浴び、当たり前のように〝普通の主婦〟になりました。と書きながら部屋で「これっきり」と杯を重ねるグラスの向こうで、ふと、東林間の神父さまの優しいお顔が浮かびます。ぼくの人生だいぶぐにゃぐにゃだけど、これもまた自分の敷いたレールなのかな…。
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