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青江三奈◆伊勢佐木町ブルース
- 2021年5月23日 神奈川新聞掲載

マリンブルーと優しい囁き
「ため息を一つつくごとに幸せが一つずつ消えて行くよ」。そんなことを言ったのは遠い日の恋人でしたが、その人がぼくの前から消えた今もため息をつくまいという風習だけは心に根付いています。いきなりのセンチメンタルですみません。
しかしため息で曲がヒットするならば夜空をため息でうずめたい! いや、そんな欲気のない、しおらしいため息がミリオンヒットの呼び水となったのが「伊勢佐木町ブルース」であります。作詞をされた川内康範さんは、ややレコードセールスが停滞気味であった青江三奈さんの新曲をと再度依頼を受けました。
大ヒットとなったデビュー作「恍惚(こうこつ)のブルース」を手掛け、名付け親ともなった川内さんに託されたのは〝30、あわよくば50万枚のヒット〟。「当時若者たちが集まっていた夜の伊勢佐木町に行ってみて、書いたんです」と川内さんはインタビューの中で振り返っているのですが、なぜひらめきが伊勢佐木町だったのかは定かではないものの、とにかく新たな風を青江さんに吹かせなければならない。おそらくそんな発想があったのではとうかがえるのは、前年の1967(昭和42)年に水原弘さんに書いた「君こそわが命」が、それまでの「黒い花びら」の〝黒〟ではなく〝青〟のイメージでと水原さんの従来の歌い方から生活までも0からたたき直し、「君こそわが命」の起死回生につながったという逸話がよぎってのこと。
恍惚の〝あとはおぼろ…〟から鮮明な青に一新してくれる街、それが横浜であり、辿(たど)り着いたのが潮風の染みたクールな夜の社交場だったのかもしれません。
「あくまで青江三奈の持ち味を生かして書いた歌だった。作曲の鈴木庸一さんが作ってきた曲を聴いて、これはいけると思った。しかし、何かが足りない。で、青江君に、どこでもいい、君がここと感じるところにため息を入れてごらん、それで百万枚はいく。そう確信した」
同時期にデビューした森進一さんと共に〝ため息路線〟を確立していたものの、ため息そのものを独立させるという発想にあらためて脱帽させられますが、青江さんにそれを望んだのは、その心に棲(す)むピュアな心を知っていたからかもしれません。

青江さんが亡くなられた時、後輩である歌手の方が、新人時代イジメに遭っていた時に唯一救いの言葉をそっと耳に添えてくれたのが青江さんだったと、涙ながらに打ち明けられていたのをテレビで見た記憶があります。そんな優しい囁(ささや)きのできる女性だからこそ響く美しきため息は魔法のように、50万の倍となるミリオンヒットとなりました。
「紅白歌合戦」ではそれが子どもによろしくない、扇情的だとカズー(球場などでよく聞かれる声の軽便楽器)に変えられたというのも今は少々噴飯ものですが、その音を「ガチョウのため息」と表現したその年の司会が坂本九さん。笑いのうちにゆったり年が暮れてゆく古き良き日本のお茶の間が浮かびます。
明治時代から栄華を築き、大震災、戦争、占領軍の接収…あまたの災いを経ても今なおモダンなムードを失わない伊勢佐木町。その象徴たる4丁目の歌碑を曲と共に眺めたのは元横浜DeNAベイスターズ監督の中畑清さん。テレビ番組のロケでしたが、折しも豪雨をつんざく中畑さんの快唱も良き思い出です。…と筆をしまおうとした今、今日(5月7日)が青江さん生誕80年の日であることを今、知りました! まるで中畑マジックなミラクル!

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