気になる 思索の履歴残す 精神科医で翻訳家・阿部大樹が初の論文・エッセー集「Forget it Not」

精神科医であり、翻訳者としても活動する阿部大樹が初の論文・エッセー集「Forget it Not」を発表した。「ある文章が発表されるまでにどんな背景や経緯があったかを書き残しておきたい」という思いでまとめた一冊。一つ一つの文章には執筆した時期の自分自身を振り返る「あとがき」がつけられ、常に人間としての誠実さを貫こうとしてきた阿部の姿勢が伝わってくる。
「文章の中のうそはもちろん、『書かないことでのうそ』もつきたくない」と語る阿部。著書には苦い後悔が残る論文も含めて収録されており、精神科医としてのあり方を模索してきた軌跡や、これまで発表してきた翻訳作品を手がけるに至った背景が読み取れる。
1990年、新潟県生まれの阿部は2014年に新潟大学医学部を卒業後、日本を代表する精神科病院の一つ、東京都立松沢病院に勤務。川崎市立多摩病院などを経て、現在は横浜市内の総合病院に勤務している。
精神科医は一般的に、ベテラン医師から学びながら精神科病院で経験を積むというが、阿部は早期にそのキャリアを離れた。
その理由の一つは「PTSD」「パニック障害」などの医学用語を使うことへの職業意識が揺らいだこと。本書に収録されている論文「妄想のもつ意味」には16年に県立知的障害者施設で入所者19人が殺害された「津久井やまゆり園事件」を受け、「相模原から私を追いかけてきた男に殺されるかもしれない」と訴える入院中の女性の言葉が記録されている。「日常的に差別を受けている精神障害者が、『障害者が狙って殺される』という事件に動揺し、自分も狙われるのではと考える。そう思っても仕方がない部分があると感じたし、骨折や発熱と同じような医学的な症状だと言っていいのか、という迷いが生まれました」

「精神疾患」とされているものを社会学的な見方でとらえ直したいという思いを持った阿部は、独学で学びを深めていく。須貝秀平と共に翻訳した、米国の精神科医で社会心理学者でもあるハリー・スタック・サリバンの「精神病理学私記」(日本評論社、19年)は第6回日本翻訳大賞を受賞。「アイルランド系移民3世で同性愛者のサリバンが、アウトサイダー的な視点から、なぜ自分が精神医学に従事しているかを丁寧に書いた本。わからないことを抽象的な言葉で取り繕わないという姿勢に影響されて、同じ事を自分にも課すようになりました」
20年には、「菊と刀」で知られる米国の文化人類学者、ルース・ベネディクトが人種差別の愚かさを論じた「レイシズム」(講談社)の新訳を発表した。「Forget it Not」には、海外にルーツを持ち「ハーフ」と呼ばれる子どもたちの生きづらさと向き合ってきたことなどを含め、翻訳を手がけた背景がまとめられている。
仕事や子育ての合間を縫い、翻訳や執筆に取り組む原動力は「自分が考えたことをなかったことにしたくない」という強い思いだ。「翻訳を手がけてきたのは『その価値がある』と確信できる作品。自分が生きて、考えたことを形に残しておきたいんです」
2023年3月6日公開 | 2023年3月6日神奈川新聞掲載
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