推し
タブレット純のかながわ昭和歌謡波止場(14)
石原裕次郎◆「サヨナラ横浜」

ムード歌謡の父が生み出した名曲
ぼくのなかで石原裕次郎さんというと、ビルの谷間から夕陽突き刺す雑踏を、三つ揃(ぞろ)いのスーツで煙草(たばこ)ふかしながら、眉間を寄せて歩く…そんな姿ばかりイメージされるのですが、元来裕次郎さんは逗子育ちの海の男。ハマの港ともつながり、今や伝説のナイトクラブとされる、山下公園近くにあった「ブルースカイ」には学生時代から足しげく通っていたと伝わっています。
そう思いをはせれば、冒頭の汽笛が青春の墓標を煙らす「サヨナラ横浜」。銀幕から“庶民のボス”へ、円熟期であり端境期といえる、1971(昭和46)年の発売になります。作詞は裕次郎さんとの偶然の出会いから歌謡界へと導かれ、果ては「我が人生に悔いなし」(87年・同62年)でおくりびととなったともいえる、縁の深いなかにし礼さんですが、作曲の“ユズリハ・シロー”とは何やら聞き慣れぬお名前。
しかし今、ユズリハ作品を歌っているぼくがおります。持ち歌の「東京パラダイス」は中川博之さんの作曲なのですが、先生こそがユズリハの幹。つまり中川博之の別ペンネームであったのです。これは専属外レコード会社への提供曲ゆえの忖度(そんたく)からかと推察していたのですが、「サヨナラ横浜」からさかのぼること5年前の66(同41)年、すでにユズリハの種は銀幕にまかれていました。日活「青春大統領」主題歌「愛のうた」の作曲者として。歌うはやはり裕次郎さんです。

昭和41年といえば「ラブユー東京」と同じ年ですが、この曲は1年を経てやっと火がついたという経緯があり、この頃中川さんはまだ無名であり専属でもなかったはず。そう鑑みると、このユズリハ名義こそが、作曲家中川博之の原点と言い換えられるのかもしれません。そして中川さんの幼少時をたどると、その葉に託された思いが見え隠れするような気がします。
韓国は京城(現在のソウル)に生まれ、戦火を逃れ母子2人で北へ逃れ、戦後数カ月をかけて再び京城に戻るや、収容所で兵士だった父と劇的な再会。しかし感激もつかの間、気が緩んだか、長旅で満身創痍(まんしんそうい)だった母がなんと翌日に亡くなってしまうのです。
春に若葉が出たあと、前年の葉がそれに譲るように落ち葉になる、それゆえのユズリハ。想像になりますが、原点とした筆名には、必死に守ってくれた母への感謝の念が込められていたのではないか。ちなみに、ユズリハを誕生花とする1月6日は「世界の戦争孤児の日」。

奇跡によって孤児とならずに、流転しながらも父の手に育てられた中川さんは、後世に残る「名曲」というユズリハをたくさん残し、“ムード歌謡の父”となって泉下に眠ります。それを紡ぐのは幾多の歌い手たち…。あっ。いま喫茶店において、指先のフライドポテトの塩を払い、椅子からずり落ちた姿勢を正し、コーヒーをごくりと飲み干し、襟元を正した自分がおります。
そう、片手にブランデーグラスが定番の裕次郎さんも、この曲のドラマにおいては、別れのコーヒーカップ。横浜の香りはB面曲にも溢(あふ)れています。そう、「モカの匂う街」。
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