気になる 三島由紀夫へのわび状 神奈川近代文学館、吉田健一展(下)

吉田健一は1946年から7年ほど鎌倉に暮らした。鎌倉と大磯にそれぞれ居を構える評論家の中村光夫、福田恆存(つねあり)と定期的に集まるようになり、48年ごろから美術評論家の吉川逸治、ロシア文学者の神西清、作家の大岡昇平、三島由紀夫が加わる。最年長の神西が40代、吉田らは30代、最年少の三島はまだ20代だった。月に1度、持ち回りでメンバーを自宅に招き精いっぱいの美酒佳肴(かこう)を用意しもてなす集いは、謡曲「鉢木(はちのき)」にちなみ鉢木会と命名された。
特定の主義主張を持った集まりとは異なり、仕事を離れて好きなことを語り合う鉢木会では、ときに京都や伊豆大島への旅行を楽しむこともあった。結成から年月を経て、56年に吉田は評論集「シェイクスピア」で、三島は小説「金閣寺」で読売文学賞を同時受賞。三島が流行作家となって華々しくメディアに登場する一方で、堅実な仕事を続ける他のメンバーとの関係には徐々に変化が生じたことと推察される。
62年、三島が鉢木会の脱会を申し出た。詳しい経緯は不明ながら、原因の一端が鉢木会席上での吉田の発言であったと示唆する、三島にあてた吉田のわび状下書きを会場で展示している。
「併(しか)し以後、気を付けますと申しましても、会の席上で申しますことは全く他意なきことにて、それ故に今後を三島さんに対して保障致しますことも覚束(おぼつか)なく存じますが、その他意なきことに免じて御再考なさいませんか」
なんと吉田はこの下書きを中村光夫に送って添削まで受けている。中村の助言をもとに念入りに書き改めたわび状は三島に届けられたが、結局翻意を促すことはできなかった。吉田はその後も手帳に記したメンバーの名前の中に三島の名を残し、脱会を惜しんだ。
70年、三島は吉田邸にほど近い自衛隊市ケ谷駐屯地で自死。一方、吉田は評論や随筆、翻訳にとどまらず「瓦礫(がれき)の中」(同年)や「金沢」(73年)など、小説でも高い評価を得た。吉田を励まし、多彩な活躍を見守り続けた中村光夫、福田恆存らと語らう鉢木会は、77年に吉田が死去するまで緩やかに続いた。(神奈川近代文学館展示課・秋元 薫)
特別展「生誕110年 吉田健一展 文學の樂み」は5月22日(日)まで、神奈川近代文学館(横浜市中区)で開催中。一般700円ほか。月曜休館(2日は開館)。問い合わせは同館、電話045(622)6666。
2022年4月28日公開 | 2022年4月28日神奈川新聞掲載
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