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タブレット純のかながわ昭和歌謡波止場(23)
津江不二夫とコンソルティーノ◆ダウンタウン横浜

歌に描かれた 庶民が暮らす横浜
横浜というと、異国情緒あふれるモダンな街。海風に彩られた、爽やかでおしゃれなイメージばかりが浮かび、今回の歌のテーマである“下町”とはかけ離れている気がしますが、本来その大まかな定義は、高台の住宅エリア“山の手”との対比として、海や川にほど近い低地。すなわちそれを「商人気質の気取らない土地」とするならば、そんなシルエットは確かに横浜にも当てはまります。
知られていない曲になりますが、津江不二夫とコンソルティーノがうたう「ダウンタウン横浜」は1968(昭和43)年の発売。高度経済成長期における、「庶民にとっての横浜」にはどんな路地裏が四方に張り巡らされていたのか。この詞からひもといてみたいと思います。
まず出てくるのが、「浜っ子通り」。いきなり♪ザキのうらまち~、と伊勢佐木町を“ザキ”と符丁でちらつかせているところからして、ここがうらぶれたオトナの場所であることを教えてくれます。関内駅に近い末広町、400メートルほどの目抜き通りは今も現存しますが、今や繁華街というより貸駐車場ばかりが目立つエリアに。もちろん、機能的でよいことだけれど、小さな宝石箱のような街並みが、それに比例して消えてしまったのは惜しい気がいたします。
続いて曙町通り。ここでも“あけちょう”と地元民らしくちぢめて呼称。作詞の山本ひとしさん、聞かぬお名前ですが、きっとハマっ子に違いない。戦後にカフェー街として発展、55(同30)年に発行された「全国女性街ガイド」によれば、その数119軒、371人もの女給であふれかえっていたとか。

なかでも、この歌に出てくる“親不孝通り”は、「この街の妖気に骨の髄まで侵された放蕩(ほうとう)者が、親の死に目にも会えず」といった伝説に基づいたネーミングなのだそう。オソロシイ。現在も、その色街の名残を残すタイル貼りのカフェー建築であろう物件は辛うじてぽつぽつと残されているとのこと。今度この界隈(かいわい)の、おじいちゃま連がカウンターに来そうな酒場にひそんで、武勇伝とともに? 差しつ差されつ昔話をお伺いしてみたい…。
最後は、“福富 若葉町通り”。こちらも伊勢佐木町商店街の裏通りとして現存。戦後の焼け野原から、米軍人による「かまぼこ兵舎」を経て、52(同27)年の返還後にはたちどころに歓楽街として発展。「横浜中区史」によれば、全盛時にはグランドキャバレー9店、バー38店がひしめき、都橋には5色のネオンが川面に映えてきれいだったとか。
伊勢佐木町には、伝説の酒場「根岸家」がありました。黒澤明監督「天国と地獄」の舞台にもなり、バンド演奏アリ、和洋食なんでもアリ、愚連隊同士のけんかアリの不夜城、その終焉(しゅうえん)は80(同55)年。おまけに閉店後まもなく火災で全焼し、やじ馬2千人が、戦後復興としての横浜の象徴、その最期を見届けました。

くしくもこの80年代を境に「下町としての横浜」も年々下火に。町会費を出し合って通りの街灯を守るような“隣組の人情文化”も消えてしまったと聞きます。
このたびは、インターネットからの覚書で恐縮でしたが、1枚の廃盤から、心の中でコンソルティーノ(“弱音器をつけて”の意)な歴史の旅ができる、そんな小さな蓄音夜話でありました。
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